遊びたいのに不適切な行動をとってしまう子どもがいます。
どう解釈し、対応したらよいでしょうか?

毎週土曜日に、研究活動も兼ね、大学近隣の発達障害のある幼少年期の子どもたちの体操教室を開いています。その日は、大学の施設が使用可能でしたので、テニスコートで「テニスっぽい活動」をしました。11名の子どもが集まり、ラケットを振り、ボールを打って活動がはじまって1時間ほど過ぎたときに、保護者が私に声をかけられました。
 
保護者 「今日は、ちょっとこれ以上活動が難しいので帰ります。」
「何か体調不良でしょうか?」
保護者 「この子には、ラケットの意味を理解することも難しいですし、ボールを打つ楽しさは、さらにわかりません。なので…。」(目線の先で、テニスコートの地面をなめてしまう子どもの様子が目に入る)
保護者 「テニスコートの“ざらざらした感覚”の方が楽しくなっているようです。舌で確かめようとなめてしまいます。おなかを壊しても困りますから、今日は帰ろうと思います。」
「そうでしたか…。それは申し訳ありません。確かにそうですね。ラケットでボールを打つことは、ラケットを振ってボールを打つという動作が必要ですから。難しくて楽しめなかったのですね。」
保護者 「投げたり、打ったりなど、モノを使う活動は難しいです。」
「本当にすみません。次の活動の時は、やってみたくなってしまう活動を準備します。」
 
 大きさや色、形、さらには性能もそれぞれに違うラケットやボールなど、教材教具を準備して取り組んでいても、子どもの「遊びたい」に応えることができませんでした。簡単に言えば、私の準備は、テニスコートの“ざらざら”を超えることができませんでした。
 活動に魅力があると自分なりの楽しみを発見し、参加することができるようになった子どもでした。活動に魅力がなければ、そこで自身にとっての別の楽しみを発見し、別の活動が中心になってしまいます。その行動は、時には、周囲の大人にとって不適切な行動として目に映ります。例えば、乱暴な動きや物をたたく、噛む行為を「粗暴」と受け止めることは簡単です。ですが、こういった行為に込められたメッセージを受け止めなければ、その子ども「ただ乱暴な子ども」となってしまいます。行為の背景には、子どもの特徴もありますが、その日の体調や行為につながる「きっかけ」があります。
 遊びたいのにうまくいかない。できることがない。遊びがわからない。伝えたいのに伝わらないという「きっかけ」が原因で起こした「行為」というメッセージを、私たちは受け止め切れているのでしょうか。問題は、行為ではなくその背景に迫ることができない周囲の大人にあるのです。
 

(回答者)
東海大学教授 内田匡輔