ちょっとした配慮が可能性を広げる

 大学の授業で、個別な配慮が必要な学生たちの体育授業を担当していると辛辣な声を聴くことが少なくありません。
「体育なんて、なくなればいいのに」
「どうして体育が必修なんですか。目の前真っ暗。」
 このような声と向き合う体育実践を積み重ね、10年以上が過ぎました。残念ながら辛辣な声を聴かなくなることはありませんでした。
 なぜ、体育をこれほど憎み、拒絶するのでしょうか。そこには、学齢期に繰り返し行われてきた生涯スポーツの獲得に向けた学びが、勝利や記録の更新に軸足を置き、敗北や更新なき継続には視線が届かない現実があると考えています。
 例えば、脳腫瘍で1年の入院治療を経験した学生は「体育の実技の授業に参加できないのはおろか、友達ふざけ合うにも細心の注意を払わなければならず、性格は内向的になっていって、だんだん家の中に引きこもるようになってしまいました」とレポートで語ってくれました。もし、授業に何らかの配慮をもとに参加し、活動ができていたら、「友達のふざけ合い」という学校での珠玉の時間を手放すことはなかったのではと思うのです。
細心の注意を主に払うのは、個人ではなく、社会や地域、学校であるはずです。細心の注意が、人の可能性を奪うとすれば、それは注意ではなく、人間の尊厳を卑下する行為です。
 病気や障害のある人たちは、どのような社会や地域にも存在し、生活を営んでいます。
インクルーシブな社会が、東京2020に向けて大切だと言われる一方で、ちょっとした配慮のある体育をすべての子どもに届けることができているのかは、まだまだ道の途中です。
 

東海大学教授 内田匡輔